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「ムネモシュネの贈りもの」を観ました [雑感]

ムネモシュネの贈り物
ク・ナウカ

 起承転結のあるようなストーリーではないが、テンポの良さと脅威の身体表現により、小難しいテーマでありながら飽きずに最後まで鑑賞できた。

 著しい身体表現能力を持つインドネシアの俳優たちに圧倒された。かわいそうなのは十分身体能力が高いはずの日本の俳優さんたちがどうしてもカラダが硬く見えてしまうことだ。比較してしまうのはワタシだけではないと思う。

 以下は簡単なストーリーとワタシの独自の解釈である。18日で公演は終了するし、このブログを見てわざわざ見に行く人もいないと思うので感想をここに記す。これから見に行く人は読まないことをお勧めする。ただ、そもそもが文字の効用に対するアンチテーゼであり、今回の創作劇に対する感想や説明も文字における限界を痛烈に感じている。

 古代エジプトのある神がヒトに文字を与えること、また与えることによる恩恵を神に誇らしげに説明する。しかし、別の神が文字によって文字を与えられたヒトは文字で記された記録に頼り、記録を通して事物を思い起こすことを記憶と考えるようになる、という悲劇が宣告されるのだった。しかし、神の警告する致命的な悲劇とは何なんだろう?

 さまざまな具象を通して「記憶」というものが表現される。衣食住に困らなくなった現代人の私たちの日常の何気ない風景が食欲などの原始的な傍目から見たら醜悪なまでのむき出しの欲望と対比される。むき出しの感情や感性を上手に制御しているヒトは洗練されたヒトとして高く評価されがちだ。しかし、現代において記憶が日常の煩雑な出来事で浪費されていく様は象徴的である。ヒトが使う記憶のルーチンが自分の本来の感情や感性の部分まで下りてこない。文字や記憶の暴走が戦争にまで発展してしまう恐ろしさまでが暗喩されている。ナショナリズムなどというのはまさに実態を持たない文字や記憶の暴走の最たるモノではある。

 生の感情の衝突は作用か反作用、かい離か融合を起こす。どちらにしても強烈な反応のため、ヒトの中に強固な記憶として残る。しかし、現代人は生の感情の噴出する機会に立ち会うとむしろ恐れおののき、身を引いてしまう。たまに見かけるそういうヒトは個性的とか、もしくはワガママとして社会から疎外されてしまう。実は衝動的に何かに突き動かされているにも関わらずに、だ。
 記憶を取捨選択する中で、ヒトは出会いなどの身近な関係などを意識的に優先順位を上げておくことがヒトがヒトらしく生きていけるというメッセージが伝わってくる。我々は日常、テレビでコマーシャルが流れ、物質欲をかき立てられ、非日常的なドラマや過剰な演出の笑いなど、嗜好なども誘導されがちだ。個性を持たないマス(大衆)として育成されている我々はそうした日常を振り返り、遠ざける努力も実はかなり重要な課題であったりするのかもしれない。

 演出家のユディさんからテーマが記憶とコンタクトであったことが明かされるが、その趣意は身体表現で余すことなく観客に伝えられたのではないか、と私は思う。


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